べーたログ

140字で書ききれないことをたまに放流します

『街とその不確かな壁』を読んで思ったこと

 

1.はじめに

2023年4月、『街とその不確かな壁』が出版され、同年5月5日、ゴールデンウィークの一日を費やしてそれを読んだ。

個人的に重要な意味を持つこの出来事について、その読書体験を自分なりに咀嚼し、事後的に参照できるようにこの文章を書く。

 

構成を考えて読書感想文を書くというのはかなり久しぶり(ひょっとすると中学生以来)であるため、論旨が迷子にならないよう冒頭に構成を明記しておくと、この記事は、①本書の骨子をザックリ把握した後で(2.)、②その流れに沿って「書かれた言葉」のうち気になった箇所について個別的に感想を書き(3.~7.)、③最後に本書にこじつけた自分語りをするというものである(8.)。②は、本書に記載された文章及び本書との関連性が明示されているもの(旧作である『街と、その不確かな壁』(以下『読点バージョン』という。)及び『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』)に「書かれた言葉」を第一に考え、そこから自分が思ったことを記載し、他の著作からの引用や関連付けのような込み入ったことは③に回す。

 

村上春樹が好き」と公言する人間は気取り屋で鼻持ちならず、『意識高い系』である。そんな評価を下されることが(少なくとも個人的な観測範囲内では)多い。これを投稿することで私も晴れてその仲間入りをすることになると思うと気が引き締まる。

 

2.前提としての骨子(含:重大なネタバレ)

  • 第一部

主人公(『私』であり『ぼく』だが、作中で意図的に使い分けられている。)が影のない人々の住む街を訪れ、夢読みとして、自らが恋した少女(『君』であり『きみ』であるが、作中で意図的に使い分けられている。)と同じ姿をした少女とともに古い夢を読み、不自由で簡素ながら手触りの良さそうな暮らしを送る。その後『私』が壁の外に脱出しようとする自らの影を助力して、最後で自らは壁の中に残る選択をして終わる。片面で意識が終わることを静かに受容し、片面で街にとどまり続けることを選んだ『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を踏襲していると読める第一部。計179頁。

  • 第二部

壁の外の世界で、夢に起因する宿命的な退職意志をきっかけにして、福島県の小さな町で図書館長の職を得る『私』。主として登場するのは、図書館長でベレー帽でスカート履きの好々爺『子易さん』、夫の赴任に伴い十年ほど前から町に住む司書の『添田さん』、名前のないコーヒーショップの『彼女』(以下単に『彼女』という)、イエロー・サブマリンのパーカーを着た『少年』(以下単に『少年』という)。そして主として描かれるのは、四十代半ばの男性の再就職活動、そして町立図書館の運営(主として子易さん・添田さんともに)、子易さんとの交流及び消失、少年との接触、交流及び失踪(あるいは脱出)、その全体を通しての『彼女』との交流等。計418頁。数字から見ても明らかなように、第二部が本書の圧倒的な割合を占めており、登場人物やボリューム、登場するエピソードも多い。あとがきに書かれていたことによると第一部のリライトのみを行って目指していた作業は済んだと当初著者は考えていたようであるが(660頁)、それにとどまらず40年越しのリベンジ(あるいは清算もしくは落とし前)として展開されたのが第二部であり、これが本書のコアとなる部分なのではないかと思う。

  • 第三部

『少年』と一体化して、壁の中の世界で夢読みとして暮らし、最後に、二人だけの意識の中の部屋で、本体が壁の外に戻ろうとする意思表示(ろうそくの炎を吹き消す)を行う場面で物語が終わる。計56頁。最も短い部であり、第二部で『私』らの行動の大きな方向性は決せられているため、(耳たぶをかじるくだりなどの心拍数の上がる描写はあるものの)予期していた範囲を大幅に逸脱するどんでん返しのような要素はなく、どこかエピローグめいた雰囲気を持ちながら進行する。

 

3.『街』に生きる『君』、その影としての『きみ』、そして『君』が暮らす『街』の人々

「ええ、今ここにいるわたしは、本当のわたしじゃない。その身代わりにすぎないの。ただの移ろう影のようなもの」(9頁)

「私の実態は──本物のわたしは──ずっと遠くの街で、まったく別の生活を送っている。街は高い壁に周囲を囲まれていて、名前を持たない。壁には門がひとつしかなく、頑丈な門衛に護られている。そこにいる私は夢もみないし、涙も流さない」(94頁)

冒頭で、『私』が少年(『ぼく』)だったころに出会い、惹かれ、憧憬を覚え、交流を重ねた『きみ』が、本当の自分(『君』)の『影』であることが告げられる。

第一部では、『きみ』の手紙や語りを通して『ぼく』が『街』のディテールを把握しつつ、『ぼく』自身も書記的役割を果たしながらその形成に共犯的な寄与を行い、二人が交流を深めていく経緯とその内容が描写されながら、それと並行して、『私』が夢読みとして(主として、本のない図書館に勤める『君』と夜な夜な古い夢を読むことを繰り返しながら)街で暮らしを送る様子が描かれる。

 

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』における『一角獣』は、その語が一切登場せず、すべて『単角獣』に置換されている。この点、一角獣の頭骨は『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の物語上相応の意味を持っていた一方、本作の『街』における獣は、構築されたシステムの中で必然性を伴って生誕と死滅を繰り返す歯車的存在としての位置づけしか与えられていない(ように見受けられる)ことから、両者を峻別するため、意図的な使い分けが行われていたのではないかと考える(実際、『私』が夢を読む対象は頭骨ではなくなっている。)。

 

第一部は、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の思い出をくすぐりつつ、現実と地続きでありながら現実でない世界、自分でありながら自分でない存在、そんな一見矛盾する(ある種荒唐無稽な)事柄について現実的かつ実際的な検討を行うことを読者に求めるウォームアップ(何の?)的な章だと思った。

亡霊をみた元軍人の老人(『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』における大佐に照応しつつ、少し穏やかな印象を受ける人物であると感じた。)の話が少し異質で印象深い。

「ひとつだけ言えるのは──そこにあったのは人が決して目にしてはならぬ世界の光景だったということだ。とはいえ同時にまた、それは誰しもが自らの内側に抱え持っている世界でもある。私の中にもそれはあるし、あんたの中にもある。しかしなおかつ、それは人が目にしてはならん光景なのだ。だからこそ我々はおおかた目をつぶって人生を生きているのだ」(86頁)

そうかと思うと、門衛(描写から受ける印象は、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の門番から大きく異なるところはない)が以下のように意見を述べてくる。

「(略)肉体なんぞ神殿どころか、ただの汚らしいあばら屋としか思えなくなる。そしてそんな貧相な容れ物に詰め込まれた魂そのものが、だんだん信用できなくなってくる。(略)」(107頁)

この辺りまで読んだところで、『本体と影』『肉体と魂』『人及び人が内側に抱え持つ、見てはならない世界』といった、なにやら宿命的な(だがそれぞれ微妙にアングルがずれている)複数の二項対立が提示されているのではないかと思い、困惑した。本体と影の主客逆転可能性について、街からの脱出を図る『僕の影』自身から言及がなされるなどしつつ、著者はいつもどおり明確な回答の提示を行わないので、困惑はより深まった(『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』同様、本作でも別途『心』に強めのスポットライトが当てられるが、相対立する何かが設定されることはない)。

それらが逆転するかもしれないという抽象的な可能性(あるいは、その傍証としての、現実と非現実という二項対立が逆転した『街』での暮らし)を感じながら読み進めた。これが結構楽しい。『村上春樹を読んでいる感』を正しく享受しているような気もする。

これに加えて第一章は、井之頭五郎的な『こういうのでいいんだよ』の心境で読み進めることができた。これは、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の良いところのひとつ、すなわち、質素で簡潔ながらも人格的生存に必要十分なように思われる『壁』のなかでの生活の描写が、形を変えつつも本作で健在だったことの寄与するところが大きい。特に、以下に引用する一文が気に入っている。余談だが、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』におけるそのようなつつましい『世界の終り』の描写は、事あるごとにアルコールの匂いが漂い、クラシック/ジャズ/ロック音楽が聴こえてきそうな『ハードボイルド・ワンダーランド』の世界と好対照をなしており、初めてこれを読んだ自分はそのことに強く惹きつけられた。

私と君は肩を並べてそんな夜の道を歩きながら、ほとんどただ黙っているだけだ。しかしその沈黙は私には少しも苦痛ではない。私はむしろその沈黙を歓迎したかもしれない。沈黙は記憶を活性化させてくれたから。君のほうも沈黙を特に気にはしない。この街の人々は、多くの食事を必要としないのと同じように、多くの言葉を必要としないのだ。(64頁)

 

4.再就職、子易さんらとの交流等

  • 第二部で活動していた『私』の正体

ラストから振り返ってみると、街に生きる『私』と、現実世界で福島県の某町で図書館長になる『私』、二種類の自己が併存する状況が生じてしまうように思われる。いずれの『私』も街の脱出直前に影に別れを告げ、街に残る判断をした記憶を持つ。矛盾しそうなこの展開を整合的に理解するための一つの解釈として、第二部で図書館長として行動する『私』は、『本体から養分を受け取った影』(MGS5のヴェノムスネークのようなものではなく、本体から本物になるための『養分』を受け取った、『本物』)だったというものが考えられる。影が「負ぶってもらっている間に必要な養分を受け取ることができました」と『私』に明言していること(175頁)、「きみは外の世界で、ぼくの影に会ったことがあるの?」という『私』の問いかけに対する『少年』の返答が「何度も」であること(645頁)などの『少年』の各発言からしても、第二部の『私』=影であることは明らかなように思われる。

その結果、『私』は影としての要素を比較的色濃く有し(本来の自分の相当な部分を街に置き去りにしていることになるので自然とそうなる)、街に入り込む前の『私』との厳密な同一性を欠くことになるが、これは、これまで『私』が営んできた現実の生活に対する希薄さを抱くこと、(ご都合主義的な)夢を見て、長年勤めあげてきた仕事を辞して図書館で職を得ることを希求するようになること、さらには以下の各記載が導かれることになる。

私はただこの現実が自分にそぐわないと感じるだけなのだ。この場所の空気が自分の呼吸器に合っていない、というのと同じように。(190頁)

「本体と影は本来表裏一体のものです」と子易さんは静かな声で言った。「本体と影とは、状況に応じて役割を入れ替えたりもします。そうすることによって人は苦境を乗り越え、生き延びていけるのです。何かをなぞることも、何かのふりをすることもときには大事なことかもしれません。気になさることはありません。なんといっても、今ここにいるあなたが、あなた自身なのですから」(383頁)

もっとも、『私』本体が意図に反して現実に戻ったとしても、前記の夢を見て前記の思考に至るのは不自然ではなく、解釈の差でこの点の整合性に差異がもたらされることにはならないと思われる。むしろ、本当の『私』はのちに子易さん376頁で述べるとおり心の奥底の意思に従って影を伴い現実に帰還し、『少年』が街に入り込んだタイミングで彼と一緒に再び街に入り込んだという解釈もできそうに思う(むしろ子易さんの発言内容のみからするとこちらの方が自然?)。けれど、影も自分自身であって影と本体という二項対立の先鋭性に冷や水を浴びせかけその主客を混乱させることができそうな第二部現実世界の『私』=影説は、(いつもどおり)核心的なところでふんわりしている本作と親和性があるようにも思う。

翻って、『きみ』はどうだったのだろう。

 

  • 子易さん、『幽霊』、『魂』、『影』

子易さんは小さく堅く何度か肯いた。「はい、今から一年と少し前のことになりますか。それ以来わたくしは影を持たぬ人間になりました」

「つまりあなたはもう死んでおられる?」

「はいもうこの世に生きてはおりません。凍えた鉄釘に劣らず、命をそっくりなくしております」(288頁)

死んだ人と話をして何がいけないのだろう?(290頁)

子易さんの魂は意識を有しており、その意識に従って行動している。どうみてもそのことに疑いの余地はない。「意識とは、脳の物理的な状態を、脳自体が自覚していることである」という誰かの定義を子易さんは引用した。そしてすでに脳を持たない魂が(つまり彼自身が)そのようにいまだに意識を有して行動していることに、根源的な疑問を抱いていた。(略)そう、死者の魂自身にだって、魂の成り立ちはよくわかっていないのだ。(359頁)

「(略)ただあなたのお話をうかがっていて、わたくしに推しはかれるのは、それらはじつはすべてあなたの心が望まれたことではなかったのか、ということです。あなたの心が(あなた自身が知らないところで)それを望まれた──だからそれは起こったのだと。(略)あなたの本当の意思はそうではなかったかもしれない。あなたの心は一番深い底の部分で、その街を出てこちら側に戻ることを求めていたのかもしれませんよ」(376頁)

あるいは人は二度、死を迎えるものなのかもしれない。地上におけると仮初めの死と、ほんものの魂の死だ。しかしもちろん、誰もがそういう死に方をするわけでもあるまい。子易さんはきっと特殊なケースなのだろう(498頁)

子易さん、添田さん、そして図書館に関する過去の物語と『私』による図書館運営は、第二部のなかでもかなりの割合を占めるエピソードであり、子易さんという人がこれまでに歩んできた人生を客観的事実をベースにして『私』が聴取し、彼の人物造形が掘り下げられるところは特にぐいぐい読み進めてしまう。子易さんについて「それほど多くの知識を持たない」(312頁)と言いながらも極めてプライベートな情報まで詳細に把握している添田さんもどこか可笑しく面白い。置き去りにされた二本の葱、彼がスカートを履く理由、半地下の冬用館長室、燃えるリンゴの薪と特製の紅茶。明らかに彼の存在によって作品世界の奥行きが広がり、(実態は私設の)町立図書館をめぐる一連の静かな毎日への没入感を高めることができた。

子易さんは影を持つ頃の意味するところを知っていた。というよりも、物理的に生命を喪失することを、(『私』に街の話をされるに先立って)影をなくしたと形容している。このような本書の記載ぶりは、物語進行上の便宜を超えた、子易さん(幽霊)が影をどのようなものとして捉えているかを垣間見させるものであるように思われた。

幽霊である子易さんと、影である(が自分のことを本物と思い込んでいる)『私』とは、ある種の相似形を描いており、そうであればこそ、最初に図書館を訪問して面接を受けて以降の一切の描写が整合的かつ自然に理解される。そして『少年』が登場する直前、383頁にて、影と本体との関係性について376頁にて物語のテーマに関する重要な指摘を行う。

子易さんは自ら「幽霊」であると述べ、『私』や添田さんからもそう明確に判断されている(290、300、354頁等)。他方で、「魂というか、亡霊のような存在」(310頁)、「子易さんは──それとも彼の魂はというべきなのだろうか」(356頁)、「幽体と──姿かたちをとった彼の魂」(425頁)などと形容されているとおり、子易さんのありようを表現する言葉には幅がある。これに意味はあるのか? ないかもしれないが、幽霊として存在するための本質的な要素は魂であると作者は考えているのではないかと思われる(魂の存在が、幽霊として成立するための要件の一つになる)。さらに意識との関連性を考えてみると、書かれた言葉を前提とした場合、①幽霊でも魂はある、②幽霊でも意識を持つ、③幽霊は脳を持たない(つまり魂と意識の保持に肉体は不要である)ことが示されているが、それ以上は明らかではなく、本作における魂と意識の関係は解釈によらざるを得ない。

魂の定義は「①動物の肉体に宿って心の働きをつかさどると考えられるもの。②精神。気力。思慮分別。才略。③素質。天分。④精進髷に同じ」(広辞苑第7版1828頁)とされている一方で、意識の定義が「①認識し、思考する心の働き。②状況や行動に関して何らかの気づき・自覚がある状態。③特に、社会意識または自己意識(自覚)。④対象をそれとして気にかけること。感知すること。」(広辞苑第7版152頁)とされている。これらのことと、幽霊という非現実的な存在が持つ意識・魂であることに鑑みると、㋐意識をつかさどるものが魂であるが、㋑現実とは異なり、魂は肉体に宿るものではなく、意識に宿る(つまり、つかさどる対象そのものに宿り、円環構造のような状態が発生する)と解することができる(というか、そう解すると面白い)のではないだろうか。

 

5.名前のないコーヒーショップの『彼女』

「うちまで送ってきてくれてありがとう。こういうの、久しぶりで楽しかったわ。なんだか高校生のデートみたいで」

「高校生は初めてのデートで冷えたシャブリは飲まないし、離婚のいきさつを話したりもしない」(488頁)

「つまり彼の住む世界にあっては、リアルと非リアルは基本的に隣り合って等価に存在していたし、ガルシア=マルケスはただそれを率直に記録しただけだ、と」

「ええ、おそらくそういうことじゃないかしら。そして彼の小説のそんなところが私は好きなの」(577頁)

「待つことには馴れている」と私は彼女に言った。でも本当にそうだろうか、私は自らにそう問いかける。吐く息は堅い疑問符となって空中に白く浮かぶ。

私は待つことに馴れているのではなく、待つという以外に、選択肢を何ひとつ与えられなかっただけではないか?

それにだいたい、私はこれまでいったい何を待ってきたというのだ?(584~585頁)

そしてもうひとつの大事な事実──私が求めているのは彼女のすべてではない。(略)今の私が求めているのは、彼女が身につけた防御壁の内側にあるはずの穏やかな温かみだった。(586頁)

子易さんが幽霊であると知った私は、その墓参りに行った帰りがけに、名前のないコーヒーショップに立ち寄って、コーヒーとブルーベリーマフィンを注文する。そして墓参りとその帰りの寄り道が日常になっていくと、あるタイミングで私は店主の彼女を食事に誘う。子易さんの消滅や、少年との交流というメインストーリーの脇で、密やかながら確かに繰り返される(そして重要な局面で一定の作用を及ぼす)サブストーリーとして読んだ。

彼女とのやりとりは読んでいて非常に心地良く、街での生活の描写に匹敵するくらいに読んでいて清々しいものだった。

マジック・リアリズムへの明示的な言及を行ったのも『彼女』であり、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』でも参考文献にボルヘスの『幻獣辞典』が明記されているように、この物語とマジック・リアリズム(この語の枠組みに押し込んでしまうことの当否はさておき)との関連性は否定しがたく、それを分かりやすく示す役割を果たしていたように思われる。

作中に登場する魅力的な女性として添田さんが別途登場するが、図書館司書としての役割、子易さんとの関係性、そしてそもそも既婚者であるなど、作劇上独自の位置づけを与えられてしまっていたことから、そのような利害得喪のない人物を登場させるという動機が働いたのかもしれないとも思う。

『きみ』のように強烈に惹かれたものではなく、『私』が『彼女』に対して思うことも二人を囲む客観的な状況も、『私』が17歳のときとは質的に異なることを自覚しながらも、例えばキスをされて他方で精神的な高揚を抑えきれていない率直な心境(489頁)を読むと、「コイツやってるなあ」と微笑ましい気持ちになる。

名前が与えられず、三人称的な言及しかなされないことは、きみとの質的な違いを強調するものだったのではないかと思う。かといって『私』に影響を及ぼさなかったかといえばそんなことはなく、『彼女』を契機として自分が何を待っているのか思案した結果、次のチャプターで『私』は壁を超えることになる。『私』が(比喩的な意味で)落下する上での基軸を提供する役割を『彼女』は果たしていたと読めると思った。落下という事象には、明確な起点Aと落下点Bが必要なのであり、そのいずれかが曖昧なままでは発生しえない。『彼女』との交流はその片方を『私』にもたらしたといえるのではないかと思った。

6.イエロー・サブマリンの『少年』と、街からの脱出

  • 免責条項

はっきり言って、感想文を書くに十分なほど『少年』のことについて読解できていないのではないか、というのが今の素直な感想だ。キャラクターとしては子易さん・添田さんの方が圧倒的に深みがあったし、彼が突然登場し、果てには『私』と街で一体になることについて、物語進行上の必然性に疑問がないかと言われれば、首をかしげざるを得ないのが正直な思いだ。『少年』をどのように位置付け、整理するのが望ましいのか、書きながら思考をまとめることができればそれが一番いいと思う。

このような困惑と疑念が彼に対する第一次的な感想であり、そのような感想しか抱くことができなかった者の文章であることを(Webサービス利用規約でお決まりの免責条項のように)言い訳がましく書きつつも、『少年』について思ったことは以下のとおりである。

 

  • 『少年』の検討

その地図を見つめているうちに、私の心は知らず知らずもう一度その街へと戻っていった。目を閉じると、私はそこを流れる川のせせらぎを実際に耳にし、夜啼鳥たちの悲しげな夜更けの声を聞くことができた。朝と夕刻に門衛の角笛が鳴り響き、単角獣たちの蹄が石畳を踏む、かつかつという乾いた音が街を包んだ。私の隣を並んで歩く少女の黄色いレインコートがかさこそと音を立てた。世界の端っこを擦り合わせるような音だ。(421頁)

少年はただ黙って私の顔を見ていた。イエスでもノーでもなく。でも私は続けた。それはあくまで推測ではあったけれど、おそらく単なる推測を超えたものだった。

「そして壁は、すべての種類の疫病を──彼らが考える『魂にとっての疫病』をも含めて──徹底して排除することを目的として、街とそこに住む人々を設定し直していった。いわば街を再設定したんだ。そしてそれ自体で完結する、堅く閉鎖されたシステムを作り上げた。君が言いたいのはそういうことなのか?」(450頁)

前記のとおり、子易さんは(幽霊らしく)ふっと消えていなくなり、物語上の役割を降りる。それから物語は、本書の折り返しを過ぎた386頁に初登場する『少年』と『私』との関係性にフォーカスする。

彼は特筆すべき事項がないようにさえ思われるありふれたサヴァンで(立場のある人がこういう物言いをするとあらゆる方面からの叱責が飛んでくるだろう)、生年月日が何曜日であるかを正確に言い当てることができ、一般的に見てあまり幸福とは思われない家庭環境に身を置き、死後の子易さんと話をしていた。そして、『私』(あるいは子易さん)の語りのみを情報源として、自らが行ったことのない街の地図を精巧に描くことができた。図書館に着任して以降『私』が覚えていた街と現実の類似性は、彼の作成した地図を契機として一線を越え、『私』が壁を超える上でも大きな役割を果たしたように思われる。

そして『少年』自身、『私』を介して街を知り、街に行かなければならないと述べ、最終的に街に移行する。第二部公判では、『きみ』を優に上回る存在感で描写されため、「現実世界での『きみ』との再会」というある種お約束的な展開を密かに期待していた安直な読者としては、それは意外に感じられた。

「(略)それは、信じる心をなくしてはならんということです。そしてそれによって、来るべき激しい落下も防げるはずです。あるいはその衝撃を大いに和らげることができます」(384頁)

「落下を防ぐ方法はおそらく見つからないでしょう」少年は言った。「しかしそれを致命的でなくするための方法は、なくはありません」

「たとえばどんな?」

「信じることです」

「何を信じるんだろう?」

「誰かが地面であなたを受け止めてくれることをです。心の底からそれを信じることです。留保なく、まったく無条件で」(639頁)

もっとも、彼をもう一人の主人公として解釈し、そこに対比の構図をみることができるのではないかとも思っている。どういうことかというと、作中でなんどか言及される、いわゆる『激しい落下』に際し、かたや、①信じるものを持つことができていた『私』、そして『私』の激しい落下による衝撃を和らげた、『私』が信じる対象(『きみ』、もしくは、ラスト(655頁)では自分の「分身の存在」になる)がいる一方で、②信じる対象を持たず、肉体を捨てて不可逆的に『激しい落下』に至らざるを得なかった『少年』がいる。これによって、『私』にとっての『きみ』、そしてその世界(街)の価値と重みをより浮き彫りにするという役割を、『少年』が持っていたと解することができるのではと思った。

少年は一方通行的にしか街にアクセスできないし(私は夢の中で、現実世界で打ち捨てられた彼の身体を幻視する)、街の中でさえ、門衛に見つかればどうされるか分からず、街において『少年』が置かれた状況は、『私』のそれとは決定的に異なる。そして『少年』は、『私』にとっての『きみ』に相当する存在を心に持たない。

こういうふうに解釈して卑近な教訓めいたものを少し無理をして引き出すとすれば、現実と非現実あるいは非現実と現実、もしくは現実と現実・亜種、そのような一件相容れない二項対立の境界に立たされ、時としてそこを越えることを強いられる我々にとって、その越境(≒激しい落下)がもたらす衝撃の後になお可逆的に生きていくために必要なことは、心の底から信じることができるものを持つことである、といった具合になるのかもしれない(『少年』の描かれ方からして、不可逆的な移行が全く駄目だとまでいう趣旨ではないと考えられr)。中学生程度の読解力しかないので、小学校の標語のような内容の教訓になってしまった感があるが、少なくとも自分はこのように思った。

  • 街と『君』にかける最後の言葉

私がここから消えてしまえば、彼女も消えてしまう──それはあり得ることだった。(略)そう考えると、私はひどく切ない気持ちになった。自分の体が半分透明になってしまったような気がした。何か大事なものが、私からどんどん遠く離れつつある。私はそれを永遠に失いつつある。(652頁)

真実というのはひとつの定まった静止の中にではなく、不断の移行=移動する相の中にある。それが物語というものの神髄ではあるまいか。(661頁/あとがき)

内なる兎が騒ぎ出し、『私』は街の外に出なければならないという思いに駆られる。

『私』が街に、『君』に別れを告げるとともに、作者が読点バージョンや『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』と異なる幕引きを選択したことがごく簡潔に示される。

その意図するところは、まさに前記のあとがきで語られていたところであり、不断の移行こそが物語の神髄であるという作者の現在の考えが反映されたものであると思われる。

リライトするのであれば自然と採用することになる結末であると思われるので、これは違和感なくすんなりと受け入れることができた。行雲流水、日本人的な素朴な感覚とも整合する。

寂しさを正面から表明しながらも、不断の移行に身をゆだねる判断を下す主人公を作り上げることができるようになったというのが、(大変僭越ながら)村上春樹40年の歩みをしっかりと感じさせてくれたので満足だった。

 

7.「62」について

『少年』同様に咀嚼しきれていないと思うのが、第二部最後の「62」(章? 節?)である。

「62」は明らかに浮いている、と思う。少なくとも夜中に読み返していると不気味に思われるくらいには浮いている。感想としては「困惑」で終わるのだが、せっかくこうして作文をしているので、改めて少し検討する。

第一文で、『私』が現実世界から壁をくぐったことが明示されている。しかし、壁をくぐった先が街であるとは書かれていない。『私』は『きみ』と一緒に川を遡りながら時間を遡行し、17歳に戻った時点で立ち止まる。

私の記憶と、私の現実とがそこで重なり合い、ひとつに繋がって混じり合う。私はその様子を目で追っている。(596頁)

そしてそこで自らの影を失っていることに気づく。そして『きみ』が次のように発言し、「62」は終わる。

「ねえ、わかった? わたしたちは二人とも、ただの誰かの影に過ぎないのよ」(598頁)

そして、やや唐突に第三部が始まる。これらの記載と構成から、本書が第二部で完結させられていた可能性を推論する。

「62」が最後に示すのは、本体だと思っていた自分が実は影であり、それどころか、時と場合に応じてその役割は流動的に変わり得るということであるが、これは従前の子易さんの発言とも照応するものであり、この限度で一つのテーマに貫かれた描写として整理することもできるように思われる。

そして、そのような結論の提示をもって、あとがきで作者が述べていた不断の移行が読者に対して示されたことになるとも思われる(『少年』との関係でも、すでに失踪を遂げていることから、その物語に片が付いたと評価できる状態には至っていると思われる。)。

そうだとすると、「ここで終わっていても別にいいんじゃないか?」ともなりかねない。

それでもあえて第三部を始めたのは、街とそこに住む『君』の存在に対してケリをつけようとする作者の意地(あるいは思い入れ)の表れなのかもしれないと今は信じている。

 

8.こじつけと自分語り

  • はじめに・その2

前記の感想文は、あくまで限定された「書かれた言葉」を中心に据えて書き進めた(少なくともそうなるように努力した)。それは窮屈さをもたらす不要な制約であり、思考の幅を狭めてしまうものである。そんな欠陥のある前提が置かれている時点で、その文章は批評としては落第である。それは確かにそう思うし、読書感想文は自分語りこそが本丸なのかもしれない。

それでも前記の構成を採用してみたのには二つの理由がある。

一つ目は、法律の条文を解釈し、最高裁判例の判示から事案を解決するための規範を引き出すときのような厳粛さで、小説の文章について考える機会を持ってみたかったからである(不幸にして今までそのような機会に恵まれたことがなかった)。

二つ目は、「書評」「レビュー」「感想」と称して、その作品が何を記載しているか(映画であれば、その映像が何を映し、音楽がどのように流されているか)を正確に読む/読もうと試みた形跡を示すことなく、ただ自分が知っていること(または周囲に自分がそれを知っていると誇示したいこと)を脈絡なく列挙するタイプの文章を見る機会が多かったことに触発され(これは底なし沼の上に宮殿を立てようとする行為に等しいのではないかと思った)、「文句を言うならまず自分がやってみろ」の精神で、自分が書いてみるとどうなるのかを見てみたいという好奇心があったからである。

実際に書いてみると、これがけっこう難しいし、読み返してみると全然できていないが、これは自分の実力が足りていないせいなので仕方ない。

 

彼はどうしようか少し迷ってから、真剣な声で私に打ち明けるように言った。「比喩的にか、象徴的にか、そこはよくわかりませんが、M**は何かしらの通路を見つけて、その街に入り込んでしまったように、僕には思えてならないのです。言うなれば水面下深くにある、無意識の暗い領域に」(559頁)

それは私の夢の内側で起こったことなのか、あるいは「意識の暗い水面下」で起こったことなのか……。(566頁)

まず最初に関連性について言及したいと強く思ったのが、『アンダーカレント』である。似たフレーズが飛び出したことからも、本作との関連性を意識せざるを得なかった。前記の各記載は、『アンダーカレント』で豊田徹也氏が描写しようとしていた内容(若しくは『アンダーカレント』の紙面から読者が解釈できる含意の内容)とよく似た指摘を行うもののように思われた。

『アンダーカレント』では、主人公『かなえ』の抑圧された幼少期の記憶をはじめとして、「意識の暗い水面下」が、本作よりもいくぶん直截的なアプローチで描写されていたと思う。かなえの心の底流であり、思わず銭湯に潜り込んでしまった堀さんの心の底流であり、失踪した夫の心の底流でもある(探偵の示唆を受けながら、かなえは自らそれを探り当てようとする)。

「人をわかるってどういうことですか?」失踪した夫を探す依頼をしようとしたところで、かなえは探偵にそう告げられる。そして自分が有していた夫に対する理解に対して懐疑の念をもって、その底流に潜り込む契機を与えられる。この漫画は構図が非常にしっかりしているとともに、作者のスタイルも適度に写実的/適度に漫画的で、まるで村上春樹作品をコミカライズしたかのような洒脱さとテンポの良さ、全体的な雰囲気の良さを備えている。加えてあいまいな展開に逃げることはなく、心の底流(アンダーカレント)に登場人物を直面させながら、彼ら彼女らに明確に判断を行わせ、ひとつの結論を選び取らせる。この点においては大方の村上春樹作品より優れているとさえいえるかもしれない。

定式化するのは少し憚られるものの、「真実というのはひとつの定まった静止の中にではなく、不断の移行=移動する相の中にある」とのあとがきの記載は、『アンダーカレント』における登場人物の行動にも妥当すると思われる。かなえの前から姿を消す決意をしていた堀さんが、バスに乗る直前で翻意して、銭湯に戻っていくラストシーンでは、あたかも街にとどまる決意をした『私』のように、それでいて過去を清算したかなえとの新たな生活の始まりが暗示されている点において、蠟燭の灯を消して街を出る決意をした『私』のように、不断の移行に身を置く姿が明確に提示されている。

偶然とは考えられない巡り合わせとして、『アンダーカレント』作者の豊田徹也氏は、前作の短編集『一人称単数』の挿画を担当しており、おそらく当該作品の制作に際して(あるいはその話が案件として正式に動くまでの間に)明示又は黙示のうちに、両者の間での接触があったのではないかと、両名のファンとしては妄想を膨らませざるを得ない。そしてまたファンとして、寡作で知られる同氏の貴重なコロナ禍中の作品制作活動が村上春樹に関連するものであったことは、何か宿命的な意味を持っているに違いないと思わざるを得ない。

 

「そうね。でも思うんだけど、そういう物語のあり方は批評的な基準では、マジック・リアリズムみたいになるかもしれないけど、ガルシア=マルケスさん自身にとってはごく普通のリアリズムだったんじゃないかしら。彼の住んでいた世界では、現実と非現実はごく日常的に混在していたし、そのような情景を見えるがままに書いていただけじゃないのかな」(576頁)

ボルヘスの本は『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の参考文献になり、さらに本書のあとがきで本人の言葉に言及がされているくらいなので、ラテンアメリカ文学との関連についても意識せざるを得ない。

現実と非現実の境界があいまいになる感覚は癖になる。この特徴は本作、ボルヘスやガルシア=マルケスだけではなく、日本語訳が存在するラテンアメリカの小説の多くにあてはまる。手元にある本だけでも、コルタサル『天国の扉』(『奪われた家/天国の扉』所収)、同『続いている公園』(『悪魔の涎・追い求める男』所収)、リャマサーレス『黄色い雨』、フエンテスアウラ』(『アウラ・純な魂』所収)、ルルフォ『ペドロ・パラモ』、アジェンデ『精霊たちの家』など、普段小説をあまり読まないアニメ・映画オタクであっても飽きることなく読み進めることができる程度の普遍的な求心力を備える作品が多い(個人的にはコルタサルが一番気に入っているが、代表作と聞く『石蹴り遊び』はまだ読めていない)。

個人的な問題に還元することができるか否かという点で区別されることになるのではないかと思われる。先に述べた作品の中で、現実と地続きの死の世界、そして濃密な死と非日常の気配を感じさせてくれる『天国の扉』を例にとってみると、恋人の死後知人とキャバレーに赴いたところそこで死んだ恋人の影を目撃するというあらすじからも明らかなように、主人公の属人的な問題がフォーカスされるだけであり、それが読者個人の領域に属する問題として意識されることはあまりない(登場人物の国籍が異なることや、キャバレー通いの文化を自分が持たないことも影響しているかもしれない)。

他方で本作のように、興を削がない程度の具体性を維持しながら、そもそも名前を持たない登場人物を複数設定するなどして、それを自分の問題として捉えることができる程度の抽象性をもって読者に提示し、同時に現実と非現実に関するあいまいな混交を経験させてくれるような点に、ラテンアメリカ文学村上春樹作品の一つの違いがあるのかもしれない。

大切な人物の突然の喪失が描かれるわけでもないし、近時の村上作品にみられるような社会へのコミットメント的要素が希薄なラテンアメリカ文学のほうが『個人的問題』としてマジックリアリズムの享受との相性が良いと考える余地もあるように思われるため、ここはとりわけ複数の考えがあり、考える余地が広いトピックなように思われる。

そもそもマジック=魔術的というより、本作は幻想的=ファンタスティック/ドリーミーであり、ファンタスティック/ドリーミー・リアリズムとでも形容したほうがしっくりくるような気がしないでもないが、名前やカテゴライズにこだわる姿勢そのものに意味がないのかもしれない。みんな好きなように呼べばいい、『私』ならそう言いそうに思う。

 

  • 『幽霊モノ』としての本作

「(略)でも亡くなられてからは、つまり魂だけになられてからは、まっすぐ私の目を見て、気持ちを込めてお話をなさるようになりました。その人柄もこれまでになく生き生きした、人情味のあるものになってきたようでした。亡くなってからのほうが人間的に生き生きしているというと、なんだか妙な言い方になりますが、それまで内側に大事に隠されていたものが、亡くなられたことによって、外に現れてきたのでしょう」(312頁)

もし彼の魂がここで(あらためて)永遠に消滅してしまったのだとしても、それは結局のところ、すでに死んだ者がもう一段階深く死んでいったというだけのことではないか。

しかしそのことは私に、生きた誰かを失った時とは少し違う、形而上的と言ってもいいような不思議に静かな悲しみをもたらした。その悲しみに痛みはない。ただ純粋に切ないだけだ。(414頁)

幽霊モノというと個人的には小説よりも映画・アニメ・ゲームを多く想起する。パニックホラーではなく対話可能な幽霊(死後の魂?)が登場する作品で気に入っている作品を挙げると、『ハムレット』、『クリスマス・キャロル』、『雨月物語』(菊花の約)、ブルースウィリスのアレ、『ゴースト/ニューヨークの幻』、『愛が微笑む時』、『若おかみは小学生!』、『ステキな金縛り』、『妄想代理人』(明るい家族計画)、『東方Project』など。概して幽霊モノと人情モノは親和性が高いと思う。

これらの作品に出てくる幽霊たちに比べると、本作唯一の幽霊・子易さんは気味が悪いくらいに物分かりが良く優しいし、いかにもな幽霊らしさを持たない。強固な未練や恨みも持たず、図書館運営の後継者探しという実際的な問題(なんならそれは相続人や遺言執行者の弁護士がその役目を仰せつかりそうなもので、幽霊がそれを担う必然性はない)を解決するために、『特別に与えてもらっている』期間の間だけこの世にとどまっており、そのことに自覚的でもある。そして「純粋な愛」について語ったりする(380頁)。他の登場人物に比べても癖がないし、投票する機会を設けたら作中で最も善良な人物第一位になりそうな雰囲気を感じる。当然のことながら、『レキシントンの幽霊』に登場する幽霊とも一線を画す。

 

作中世界の幽霊の位置付け・特徴を思いつくままに列挙すると、①幽霊も影を失った存在の一種である、②幽霊にも魂(もしくはおそれに付随する人間の心?)はある、③幽霊でも紅茶を淹れることができる、④限られた範囲の人間にしか見えない、⑤人の前に姿を現すことができるタイミングは限定的であり、いつ消滅するかも随意には選べない、⑥他の幽霊との関係性は不明、⑦幽霊と亡霊の関係性は不明、といった特徴が挙げられる。

特筆すべきはたぶん①だろうと思う。影を失うことは生身の人間にもできることである。つまり人間と幽霊との境界は(②魂が継続して保持されることと相まって)あいまいなものになっている。人間が生きながらにして幽霊と似た状態に置かれ得るという点が、列挙の各作品と本作との相違点と考えられる。それは物語上有効に作用していたように思うし、現実と非現実の境界をあいまいにすることに関する一つの新しいアプローチとして興味深いものだと思う。

 

子易さんは『私』に大きな影響を与えるが、途中でふっと消えてしまい、(幽霊という観念を含めて)物語上の役割を終えてしまうので、本作を典型的な幽霊モノの作品としてカテゴライズすることには躊躇を覚えないではないが、幽霊というファクターが物語上重要な意味を有することには変わりなく、そしてそれが本作の特徴の一つになっていると思う。これは『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』ではシャフリング、記号士、やみくろといったSF的要素が果たしていた役割であり、それが本作では幽霊とサヴァンに置換されている(ように思われる)。自分とその影について、現実世界でも『私』が思索できるようにするという明確な意図のもと生み出された差異であり、ただ安直になってしまったというわけではないと思う。

 

本作での音楽的な言及は、もっぱら名前のないコーヒーショップの有線から流れるジャズに限定して行われる。過去作と比較しても相当に控えめであり、現実でも街でも、音楽的要素が作中で持つ意味は相対的に小さいと表明しているかのようにも読める。(逆にその少なさゆえに、言及される音楽は独特の存在感をもって作品世界を演出することになるようにも思われる。)

そんな本作での音楽の位置づけが端的に示されているのが次の記載であるように思った。

この高い壁に囲まれた街では、誰もビートルズの音楽を聴くことはできないから。いや、ビートルズに限らず、どのような音楽も。(602頁)

村上春樹作品に類似しているという指摘をたまにみる(最近はそういう声も少ない?)伊坂幸太郎のデビュー作『オーデュボンの祈り』の作中でも、『この街に足りないものは何か』との問いかけが行われる。そしてその答えは音楽である、当然のことながら(『薔薇の名前』風)。

街の人々には心がなく、それゆえ音楽も意味を持たない(『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』文庫版下巻220頁に記載されているとおり、彼ら彼女らにとってそれは意味のない音の羅列に過ぎない)。その一方で荻島(=『オーデュボンの祈り』における『街』)の人々は心を持っており、ラストシーン、静香がアルトサックスを演奏し、それ皆が享受することに対する大いなる予感とともに物語は終わる。このように、両者に対して音楽が持つ意味合いはそこに生きる人の『心』の有無という観点から峻別され、それで終わってしまうようにも思われるので、この比較にはさして意味がないような気もしてしまう(伊坂幸太郎が好きなので無理やり関連付けて考えてみたくなってしまっている)。

そこでまた別の切り口で考えてみると、『オーデュボンの祈り』は、システムそのものが変化することの予感(優吾の死、新しい案山子、音楽という概念の導入)を感じさせるような形で物語が閉じられていた。その一方で本作は、獣たちの季節ごとの営み、門衛の行動様式、永遠の中で巡る季節、そういった完成されたシステム=街を所与のものとしながら、これに対する現状変更の試みを『私』も影も行おうとせず、あくまで個人的な営みによって変化をもたらそうと試みる。門衛を殺そうなどとは考えず、少し門衛の気を紛らわせて時間を稼ごうとするだけで、「門衛に謝っておいてくださいな」(183頁)と影自身が発言してしまう始末だ(自分で作り上げたシステムなので、それもまあ自然といえるのかもしれない)。

自己の内的な変化に重点を置く本作と、外的なシステムの変更の可能性を示唆する『オーデュボンの祈り』(そもそも主人公である伊藤は荻島にとって全くの部外者であり、街を想像した『私』とはこの点でも対比が可能である)とでは、コロナ禍、世界情勢の悪化、終わることのない不景気(そして場合によっては毎日の苦痛な日常)に打ちのめされた現在の人間にとって、前者のほうが現実的なのかもしれない(が、あるラインを越えたら、後者を志向せざるを得なくなるタイミングが来るのだろうとも思う。)。

 

  • ある種の物事はしかるべきタイミングが訪れるまで時間の経過を要する

今ある結末を選んだのは、それが物語の流れからして、いちばん収まりが良かったからじゃないかな。そのときにはそれがいちばん自然な成り行きのように思えました。しかし今あの物語を書き直すとしたら、あるいは違う結末を選ぶことになるかもしれません。確信はないけれど。僕が言いたいのは、それが最終的な結末ではないということです。それは変更可能なものです。結末はオープンです。結末は最終的なものではない。僕はいつもそう考えています。(『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』文庫版364頁)

これは作者が2005年に『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の結末に関してインタビューに回答した際の記載である。

彼が言っていることは2023年(あとがき)も2005年(前記)も一貫しており、2005年の回答も、本書のあとがきで言及されていた不断の移行を意識して行われたものだったのだろうと思う。もっともこのインタビューから二十年弱が経過していることからすると、「結末は最終的なものではない」という思いを抱きながらもそれを形にするのにはある程度の時間を必要とせざるを得なかったのではないかと思う。本作が大きな心境の変化によって書かれたものではなく、2005年(もしかするとそれ以前)から企図されていたことについて、機が熟したことによって行われた執筆なのだと思うと、それはそれで作品の新しい一側面を除くことができたようで面白い。
不断の移行は、これまでのみならずこれからにも妥当するのだと思う。すなわち、読点バージョンに端を発する一連の作品群が『街とその不確かな壁』で終了する必然性はなく、村上春樹が生きて作品を書きつづける限り、「結末は最終的なものではない」ということになる。

  • 終らない世界とハードボイルドじゃないワンダーランドで暮らしながら

以前の自分は、心地よいリズムを持った文体で、『世界の終り』の静謐で厳粛な世界/『ハードボイルド・ワンダーランド』の洒脱で物騒な世界が同時に展開していく様子を、貪欲にページをめくりながら楽しんでいた。これは高校生の頃の話で、思い出す限り、(遅ればせながら)初めてのまっとうな読書体験だった。

『ハードボイルド・ワンダーランド』の『私』は、「君は将来とても不幸な人間になるよ。しかしぜんたいとしては人生を祝福しなさい」(文庫版下巻386頁)と『カラマーゾフの兄弟』を引用し、自分の運命を甘受する姿勢を見せる。読点バージョンの、どこか厭世的で独りよがりだった雰囲気が転じて、このような前向きな後ろ向きさ(後ろ向きな前向きさ?)を示しつつ(それこそが『ハードボイルドであるということ』の一側面かもしれない)物語が収束していくその様子に、ある種の美しさと大きな満足感を覚えたことを、今でもよく思い出すことができる。

このように、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読むというのは個人的に極めて重大な意味のある読書体験だった(そうでありながら、ベースになったと言われていた読点バージョンは図書館で一度拾い読みした程度で、この記事の冒頭で定義づけしていながら、その後一度しか顔を出さない。にわかである)。精神的な連続性を持っていると評されていた『海辺のカフカ』もそれなりに楽しく読んだ。

そんな読書体験を忘れたり思い出したりしながら、今は文学のブの字もないような文章を書く仕事をしている。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を初めて読んだころに思い描いていたような暮らしをしているわけではないし、毎日の実際的な生活に追われているせいでまともな思索めいたものすらできていないのが現状であるため、文学的な何かに対して何らかの形で継続したつながりを持ちながら暮らすことができているだろうと漠然と思い描いていた過去の自分に対して申し訳なく思うところはある。その一方で、ぼんやりと二十歳かそこらで死ぬとばかり思っていた自分でも、その不確かな壁を乗り越えてまだ元気に生きているというその事実を、多少の誇らしさを添えて過去の自分に報告してあげたい気分でもある。

自分のような人間が、(改善の余地は大いにあると思われるものの)都市で自活し、ゴールデンウィークの昼下がりから酒を飲んで読書感想文作成に打ち込むことができる程度にはまっとう(?)な生活を送れているのだから、これは僥倖と評価するべき事態だと思う。

このように考えをめぐらして気色悪い読書感想文を書くきっかけをもらえたのも、ひとえに村上春樹が『街とその不確かな壁』を出版してくれたことに起因すると思うので、私的かつひそやかにここで感謝したい。どうもありがとうございました。